平成維新に策は要らない。

ペリーが浦賀に来る前に石垣島で騒ぎがあった。

米奴隷船ロバートバウン号に積まれた苦力が暴動を起こし、船長を殺してこの島に逃げ込んだのだ。

ペリーは戦艦サラトガを差し向けて苦力を狩り出し、白人に抵抗した見せしめにその場で吊るした。

暴動の原因は洋上に出たところで400人の支那人を裸にし、辮髪を切り落とし、キューバやペルーなど売り払い先ごとにCやPの焼き鏝を胸に押し当てた。

売り物にならない病気持ちはその場で海に突き落として鮫に食わせた。

季節労務の募集だと思っていた支那人たちは奴隷にされたことを知って暴動を起こした。

この顛末はパーカー米公使が石垣島から連れ戻された苦力を船員殺しの実行犯として告訴したときの厦門の裁判記録による。

維新前夜、日本の周辺にうごめく欧米列強はこんな無茶をやっていた。

そんな中で日本は国を開いて近代化を果たし、支那朝鮮の目覚めも促した。

結局は支那を取り込んだ欧米に潰されたが、そこまで健気な日本を加藤登紀子は「日本と聞くだけで腐臭がする」といい、大江健三郎は下手な文章と下手な嘘で日本を蔑んで喜ぶ。

日教組も欧米に倣い「明治維新は市民革命じゃあない」とヘンな貶め方をしてきた。

彼らの言う市民革命はフランス革命のように支配階層を片端からギロチンにかけるのが形だ。この革命では60万人が殺された。

ロシア革命も立派な市民革命で、レーニンは皇帝一家皆殺しにし「富農を毎日100人ずつ」吊るさせた。革命の犠牲者は900万に上った。

支配階層の殺戮が市民革命の要件なら、毛沢東ポルポトももっと高く評価されていいことになる。

明治維新は足軽、小者という最下層市民が支配階層の武士を排除した。

形は市民革命的だが、処分は殺戮ではなく秩禄処分、つまり解雇だけだった。

革命後の国体も天皇を戴く構造はそのまま。足軽上がりの伊藤博文らが側近に上がり、天皇の親政を輔弼するが如く振る舞った。

伊藤はルイ王朝のリシュリュー井上馨がコルベールのつもりだったか。

それが世間に厳しく批判され、明治天皇が望まれた「万機公論に決する」民選議院設立が急がれた。

明治5年に鉄道を走らせ、明治16年には発電所も作ったのに国会開設が一番遅れて明治23年というところに伊藤ら足軽たちの権力への拘りが窺われる。

大量殺戮のない明治維新のもう一つの特徴が、旧弊に飽きていた市民の生活革命だった。

まず髷だ。朝起きると月代を剃り、髷を結う。女は鬢付け油で固める。

寝るときも髷を結ったままだから、箱枕という固い箱を首筋にあてて寝る。

寝相の悪い人には拷問だっただろう。

髪洗いも毎日とはいかないから虱も湧く。柘植の櫛が好まれたのは虱の卵取りに効果があったからだ。

女は嫁ぐと眉を剃り、歯を黒く染めた。そんなヘンな習慣が平安の昔から人々を縛ってきた。

面倒な着物も髷もお歯黒もやめたい。それを維新に便乗して全部やめた。

日本に倣ってトルコ近代化を目指したケマルパシャはトルコ帽をやめさせるのに何百人も死刑にした。

支那人は辮髪に拘り、切り落とされただけで暴動を起こしたことは前述した。

米国人は今もヤードポンドを変えられない。世にも不思議な45メートルプールで泳いでいる。散切り頭を叩いてみれば、と唄う日本人とは大違いだ。

日本人はまた維新を機に儒学もやめた。儒学に囚われたままの支那朝鮮に挨拶することもやめた。

血も流さず、寝床から思想まで古い殻をきっぱり捨てた維新はむしろ市民革命のお手本と言っていい。

あれから1世紀半。平和憲法とか朝日新聞とか、つまらぬ澱が溜まって、支那朝鮮に挨拶まで始めた。

今、維新という。維新に策は要らない。もう一度どぶ浚いすればいい。

 維新を考える:変見自在 高山正之 週刊新潮 2012.9.20号